長篠城を救った鳥居強右衛門はどんな役割を果たしたのか?磔場を解説

徳川家康ゆかりの地巡り第2弾は、国道151号線沿いの長篠城址の主張ともされている看板、鳥居強右衛門が磔(はりつけ)にされたポイントとどんな事をしたのか解説。

長篠城跡や保存館の見所記事

徳川家康が参戦した歴史的に有名な戦いの1つ「長篠設楽原の戦い」、その発端となったのが長篠城を武田信玄の息子、武田勝頼が攻めたのがはじまりとなっていて、徳川側の城主・奥平定昌...

武田勝頼ひきいる武田勢が攻めた長篠城の戦いでは、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という人物が重要な役割を果たしていて、勇気ある行動から今現在でも長篠城のシンボル的扱いになっています。

鳥居強右衛門はどんな役目をしたのか?

長篠城を救った鳥居強衛門は、通称「戦国時代の走れメロス」とも呼ばれている人物!長篠城を武田勢が15000の兵力で四方八方から囲い城を攻めたことにより落城間近となっていた所、城主に命じられ徳川家康に援軍を求めに行く役になったのが鳥居強右衛門と鈴木金八。川つたいに岡崎城に向かい無事に家康に会うことができ援軍の確約に成功した帰り、鳥居強右衛門は武田軍に捕まってしまいます。そこでは武田勢の心理的な戦法で、「援軍はこないと言えば命を助ける」のやり取りがあったものの、城から見える位置に移動して呼びかけた言葉は「援軍来る」という正反対の篭城している奥平勢には勇気付けられる言葉でした。その結果、鳥居強右衛門は城が見える豊川反対岸沿いに磔にされてしまい、命をかけた勇気ある行動をした人物として言い伝えられています。

物理的な戦いだけでなく心理的な戦いも必要とされていた戦国時代、もし呼びかけの時に「援軍はこない」と言った場合、士気が下がりモチベーションも一気にだだ下がる事が予想できることから、鳥居強右衛門のとった行動は、役目を果たしただけでなく武士ならではともいえます。

長篠城の戦い時系列

  1. 武田勝頼ひきいる武田軍が長篠城を攻める
  2. 武田軍15000に対して城主奥平勢500で応戦
  3. 徳川家康が織田信長に援軍を要請
  4. 長篠城を救うため岡崎に織田信長勢到着
  5. 援軍がなければ長篠城落城間近
  6. 鳥居強右衛門が徳川家康に援軍を求め岡崎城に向かう
  7. 無事に家康と信長に会い援軍を確約
  8. 鳥居強右衛門帰りに武田軍に捕まる
  9. 鳥居強右衛門城援軍来ると伝え磔にされる
  10. その後織田徳川軍VS武田軍の設楽原の戦いに発展

長篠設楽原の戦いは、時系列を見てもわかるように徳川家康の領土となっていた長篠城を武田勝頼ひきいる武田軍が三河領土を支配するために攻めたのがはじまり、武田勢の圧倒的な数により長篠城が落城しそうになった時に鳥居強右衛門が家康信長に伝えにいったことから、徳川勢+織田勢の連合軍が設楽原の戦いに発展。

長篠城の戦いで重要な役割を果たした鳥居強右衛門の磔にされた場所は、見せしめのために長篠城から見える位置にされた!?

鳥居強右衛門が磔にされた場所

場所 愛知県新城市有海篠原付近
駐車スペース 新東名高速下付近

あぜ道沿いに有り

鳥居強右衛門が磔にされた場所は、豊川沿いの新東名高速高架下付近。位置的にも長篠城の反対側の岸なので、長篠城址や展示物がある保存館に行った後に寄るといいかもしれません。

高架下のあぜ道に看板があるだけでなく、徳川家康ゆかりの地のぼり旗有り。

あぜ道を200mくらい進むと石碑や案内板があるので、比較的わかりやすい体感。

石碑付近の林の間からは長篠城が見える位置、鳥居強右衛門が磔にされたポイント約100m以上離れた川沿いから呼びかけたようにも見えますが、実際は城付近(国道151号側)から援軍来ると言ったようです。

歴史スポットとして見るものは案内板と石碑だけで他に見るものはありませんが、現在でも当時の様子が色濃く残っている場所だけに、付近の景色を見ながら当時の様子を想像するスポットかもしれません。

鳥居強右衛門まとめ

長篠城を救った鳥居強右衛門の存在は、後世に語り継がれる勇気ある行動をした人物!その鳥居強右衛門をこの場所に武田軍が磔にした理由を考えると、実際訪れて付近を見渡すとよくわかり、長篠城があった本丸付近からも見えるこの豊川沿いを選んだのは、やはり見せしめの為にここにあえて磔したように見えるので、物理的にだけでなく心理的作戦がいかに戦国時代の戦いに必要だったのか伺えました。

徳川家康ゆかりの地としては、田園地帯にたたずむ歴史スポットなのでそこまで見栄えする物はないものの、長篠城と言ったらこの人物と言っても過言ではなく、NHK大河ドラマ「どうする家康」のロケ地巡りや歴史スポット巡りをするにはかかせない場所につき、長篠城跡に行った際は訪れてみてはどうでしょうか。

三河領土を欲しかった武田信玄!勝頼に変わってからもその傾向が強く、一般的には長篠城を攻めることからはじまった長篠設楽原の戦いが有名ですが、意外と知られていないのが、奥三河地方豊田市にある足助城で、長篠城同様に徳川勢と武田勢が取ったり取られたりを繰り返しているので、城跡巡り徳川家康ゆかりの地としては有りです。

次の記事では、長篠城の戦いから発展した歴史的にも有名な設楽原の決戦場所と歴史資料館に行ってみたので、どんな見所があるのか?資料館の見る順番など解説。

今回の徳川家康ゆかりの地巡りは、長篠設楽原の戦いがメインとなっていて、①長篠城址と保存館②鳥居強右衛門磔ポイント③設楽原の合戦場所と資料館の時系列順で訪れています。
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